最後に感じることが納得でありたい

憂鬱な月曜の朝にイカした目覚ましを撃ち込んでくれる親切な国がある

 

久しく忘れていましたが、自分は今生きていて、ある日理不尽な何かに突然その権利を奪われる可能性があるということを思い出しました。

 

会ったこともない特に接点もない奴に何の気なしに殺されるかも知れないと考えるとゾッとするのですがそれは私が気付かなかっただけで、世の中見渡してみるとテロだったりなんだったり訳の分からない死に方をする可能性がゴロゴロしているというのをようやく実感できるご時世になってきました。

 

ただ今回改めて思ったのは時間に殺されるにしても他者に殺されるにしても、その瞬間今までの生き方に納得できるように努めたいということです。

ぶっちゃけ頭の上にミサイルが落ちてきたらそんなこと考える間もないし死の間際に意識がハッキリしている確証もありませんけど、そう考えると余計なことに気を取られる時間というのはあまり無いんだと思い至るのです。

 

俺はこれをやり切った、だからもう思い残すことはないとなれば最高ですがその次に良いのは自分のやりたいことに精魂傾けて取り組んでその途上で息絶えることではないでしょうか。

 

結局たどり着けなかったか。だがまあやるだけやったなと納得しながら死ぬのも決して悪くはないと思います。

 

一番良くないのがやりたくもないことに忙殺されて疲弊して、それを癒すために休息したらまた次のやりたくないことが待っているというドツボループだと思います。というか今の私がまさにこれです。

 

この悪循環に陥ってるからこそ、あの海に墜ちたミサイルのニュースを見た時あんなのに殺されたら死んでも死に切れないし、やりたいことだってあるという意識を強く持ったのです。

 

いささか荒療治ではありますが、生命の危機というのは日常享受している生きていることの有難さを強烈に思い起こさせてくれます。数年前に高熱にうなされて祖母らしき人物が枕元で微笑んでいた時もそう思いました。
あの時は本当にもうダメだと思った。

 

今回の鉛筆型目覚ましの件は久方ぶりにそういうことを考えさせられました。毎日些細な理不尽があって疲れてるけど、それでも自分のやりたいことは忘れてはいけないしちょっとずつでもやり遂げよう。死の直前に夏休みの最終日みたいにうろたえるのはどう考えてもカッコ悪いので。

 

あ、私自慢じゃないですけど子供の頃二学期の始業式の朝に夏休みの日記を仕上げましたよ。母にめちゃめちゃ怒られながらやりました。

 

でも人生って始業式みたいな泣きの一日はないんですよね。
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